椙田拓也(すぎた たくや)プロフィール

不動産投資家。2008年のリーマンショック以降不動産投資を開始、北関東を中心に1都6県で14棟100室のアパート・マンションを所有、運営。融資にちょっと詳しいからといって、調子に乗って不動産投資に関する情報を発信しまくってます(笑)。著書に『空室率70%でもキャッシュが回る非常識な不動産投資術』(ごま書房新社)。



 

あ。はじめまして。椙田拓也(すぎた たくや)です。簡単な自己紹介をさせて頂きます。不動産と僕との関わりは、新卒で大和ハウス工業に入社した時点に遡ります。

大和ハウスでは、流通店舗事業部という郊外型のロードサイド店舗の建築請負の部署に配属となり、そこで現場の営業を2年やりました。大和ハウスは今でこそCMでのイメージアップ戦略もあって“総合生活建設企業”としてまともな会社なイメージになりましたが、20年前当時は「浪速のド根性営業」という今で言うブラック企業でした。

そんな中でも、僕は頑張って仕事しており、一年目でも中堅の先輩並みに順調に業績をあげていました。しかし、その年の冬のボーナスでは、毎日営業時間中に寮で昼寝して受注ゼロだった同期と、「平等」という名のもとに同じ額しか支給されず愕然としました。こんなコルホーズ(旧ソビエトの集団農場で働きの成果でなく単に均等割りに報酬を分かつ共産主義的な労働方式)みたいな会社はイヤだ。

そして6年目に主任、10年目に係長、勤続20年で銀バッジ、30年勤めたら金バッジ・・・こんなチョコボールのおもちゃの缶詰みたいな会社はイヤだ。と思い、2年で退職したのでした。


そのあと、学生時代にアルバイトをして勢いを感じていたベンチャー企業「光通信」に転職。正確にいうと、光通信にいた先輩からお誘いを受けたのでした。大和ハウス時代の終盤に、クルマで信号待ちしていたところ、隣の車線に止まった赤いフェラーリのドライバーから声を掛けられ、見ればそれが学生時代のバイト先の先輩であった光通信の社員でした。出向していた関連会社が上場し、もらっていたストックオプションが4億円に化けて新車のフェラーリをキャッシュで買った、とのこと(汗)。

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先輩:「いまも光通信ベンチャーキャピタルが投資先企業を見つけては人を送り込んで、上場させては売却益を稼ぐやり方を続けているから、いまからでも遅くねーぞ、椙田」

僕:「マジすか。行きます!」

というかるーいノリで僕の転職が決まりました。そして黄色いハチマキを巻いて毎日「ひかり体操」から始まるベンチャー生活が始まりました。それが1998年の春でした。

それから数年は仕事も面白く、業績も順調でストックオプションやワラント債も多数もらうことができ、出向先企業があとは無事上場さえしてくれれば僕も億万長者!という一歩手前で、2000年頃にITバブルがはじけ、結局大金を掴むことはできませんでした。残念、、、

 


夢破れて、その後の人生を考え直しました。光通信は、社内では「30歳定年」という不文律があり、別にそういう制度があったわけではありませんが、とにかく激務なベンチャー企業だったので、体力的にも20代でないと厳しい労働環境だったのです(苦笑)。

出身者のほとんどはIT関連で独立起業する人が多く、僕もどうするか迷いましたが、特にやりたい仕事があったわけでもなかったので、起業は見送り普通のカイシャに再転職しようと考え、5年勤めた光通信を辞め、オリンパスという精密機器メーカーに転職しました。

あとあとの不動産投資を考えたとき、この時の判断は本当にヨカッタと改めていま思います。不動産投資は、最初は属性を利用して融資というレバレッジを効かせるところに妙味がありますので、独立したての個人事業主や小さな企業の経営者よりも、上場企業のサラリーマンや公務員、士業(医師・弁護士・公認会計士など)の方が圧倒的に有利なのです。

 

その後、株式投資は続けていましたが、2005年のライブドアショック、2008年のリーマンショックという二度の大きな事故により、2000万円くらいあった資産が大きく目減りしてしまいます。ここで「紙の資産(=株や債券などの有価証券)」には懲りて手仕舞いし、今度は「現物の資産」として不動産投資に切り替えようと決意しました。

 

2009年から毎年2~3棟を買い進め、4年ちょっとで14棟100室の規模まで拡大させ、2015年にはサラリーマンをリタイアすることができました。どういう物件をどのように買い進めてきたかはブログの本編でバラバラと書いていますので、これからお読みください。
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さて、僕が不動産投資を始めたきっかけは次のページに書いていますので、お読みください。